Column SORA

   

企画力と実践力

    

   

    

いわゆる「アウトプット」…自分の思考整理のためも、一度頭の中にあるものを全て言葉にしてみる…それは文章にしても良いし、喋ってもイイし、何かしらの言葉にして「頭の中の棚卸し」が、結構大切だったりします。

つまりは、「脳内出力」をするという行為ですね。

 

そして、それらを自分なりに整理したことを、実践に活かして確信を得たものについては、いろんな場面での発言で「自分軸」となるようなキーワードに集約されて、表現されることが多くなります。

 

ボクは、以下のキーワードや言葉を、各種プロジェクト運営先や講演などのリアルな場だけでなく、facebookやホームページなどでも、ずっと使っています。

  • 「競争」よりも「共創」
  • 「勝ち組」よりも「価値組」
  • 「教育」よりも「共育」
  • 「オンリーワン」は事業者ではなく一人ひとりの家庭の暮らしにあるべき
  • 「顔が見える範囲」のコンパクトな循環型経済
  • 「次世代の子供達」に挑み続ける大切さをコトバではなく背中で語ること

    

そして、いろいろな場面で、それらのキーワードを、さらにいろんな方と深堀りしていったり、そのキーワードに基づいた行動の範囲が拡がったりすると、その表現が多くの人が目にしたり耳にされるようになるにつれ、以下のようなメールが届くようになります。

______

 

「ある人が我が言葉のようにこのキーワードを連呼していますが、これって…日頃河合さんがいろんな会合やfacebookで語り続けていることですよね。

明らかにその場にいた人や河合さんの言葉を読んだと思われる人が、それをまるで自分の指針に使ったり、キャッチコピーにしてヒトを誘導しているように見えるんですけど…

それってどうなんですか?」

  

_______

  

えっと…

 

「それってどうなんですか?」と聞かれましても…

 

「ボクは全然構わないですよ。むしろ、仮にボクの発した言葉がキッカケだったとしても、その方の次に実践に活かすための何かしらのヒントになったということで、喜ばしいことですから…。」としか返答できません。

実際、このようなメッセージを頂くと、そのよう返答し続けています。  

   

 

おそらくお気遣いからなのか、「マネされていますよ!」ということをボクに告げておられるんでしょうけど…。

目くじらを立てることではないように思うんですね。

 

   

  

目覚めの機会であるだけ

 

そもそも、ボクらに、そんなに「影響力」があるとは思っていません。

 

たまたま、キーワードをアウトプットした時、それがちょうど聴いている人にとって、「タイミング」が良かったり…たまたまその人の潜在的思考として既に持ち合わせていた何かへの「インパクト」になっただけのことではないかと思うわけです。

  

タイミングとインパクトのバランスがちょうどパチンと合う瞬間、野球のバッティングでも、良い当たりのヒットになります。

それと同じように、そのヒット性の当たりが、ご自身の「覚醒の機会」だったとして、前向きの捉えて頂ければ良いわけです。

  

仮に…ボクらが使う表現を引用する人が多くいるとしても、その人達もボクらの発言や記載文ばかりに影響受けておられるワケでもないはずなんです。

  

そして、ボクらが使う言葉でも、これまでの多くの出逢いや、小さな失敗を重ねて培ってきた経験から、いろんな影響を受けた中で、自分達が目指す方向性を表すものとしてアウトプットし続けて、整理した結果、出てきた「言葉」でしょうし…。 

 

したがって、「それは河合の言葉だろ!」と擁護されること自体、あまり意味を見出せないように思っていたりするのが実情です。 

  

  

「影響」ではなく「栄養」に…

   

ボクらにしてみれば、「誰が何を言っているか」ということよりも、インプットされた言葉から次への行動への覚醒をされる人に対しては、もっと大切なところで尊重したいのです。

たとえそれが、ボクからの言葉の「インプット」によるものがキッカケだったとしてもです。

 

ボクらからインプットされた人が、次はアウトプットする側になるということは、何かしらに「覚醒」されたのでしょう。

奮起して「アウトプット」に替えるという…次へのつながりにしていく意識こそが大切なんです。

 

つまり、「インプット」に留まらず、言葉として公に「アウトプット」している人は、その人にとっても、実践・行動に移していく「覚悟の表れ」とも言えます。「覚醒から覚悟へ」…その覚悟の有無については、その後のその人の行動で証明されることでもありますから…。

 

  

「それは、もともと違う人の言葉だろう!」と批判したり、元々の発言者を擁護するところに、大きな意味を持たないというのは、そういう理由からです。…むしろ、批判したり元の発言者を擁護する人は、こういう仮説が立ちます。

  • まだ「インプット」の部分までで立ち止まっているとしたら…
  • 次また自分が響く言葉をインプットしてくれることを、ボクらに依存されるようになってしまう悪循環になってしまっては…

ボクらは、そちらのほうこそ避けたいことなんですね。

  

だからボクらは、カンフル剤的な「影響」を与えるつもりはなく、自分が感じたことを実践に移して、背中で語っていることから何かの刺激を感じてもらえるだけで構わないと思っています。

ご自身の足で、しっかりとご自身らしく歩まれる際のビタミン剤的な「栄養」くらい程度と思っていただければと…。 

 

 

企画力と実践力の相関性

  

さて、やっとこのコラムの本題に入りますが…アウトプットし始めた人達…つまり、次のステップを踏み出そうとしている人達に求められることとは何かという話に移ります。

その求められるものとは…『実践力を高めること』ではないでしょうか。

 

このあたり前のような「実践力を高める」とは、さてどういうことなのか…。その「やり方」の前に、「実践力が高まるためのあり方」がとても大切ということを、しっかりと捉えておきたいところなのです。

「やり方」の前に、「あり方」です。

   

ココに、ボク自身の経験談から気づいたことを整理しておきます。

 

ボクは今も経済的には決してゆとりはありませんが、独立起業してしばらくの頃、見通しの甘さから、本当に収入激減で生活が切迫していた時期があります。

その…まさに崖っぷちの頃に、自分の振る舞いや言動から気づいたことが、「企画力と実践力の相関性」です。

  

以下の三行は個人的経験則からの持論ですので、別に格言ではありません。

  

しかし、ココに気づいてから、さまざまなことが具体化していったのも事実です。

 

企画力なき実践力は…「無心」

実践力なき企画力は…「無力」

企画力と実践力は一心同体であり、「心」と「力」が要る。

  

「心なき動き」は息切れするか…実績が伴いにくい。

「力なき想い」は頼りにされない空想家におわる。

 

そして、その「心」と「力」は、『誰に向けてのものなのか』というブレない軸があるかどうか…

これさえあれば、不思議と小さな実績から拡がりが見えたり、活き筋が見えたり、時には仲間まで見つけられるようになります。

   

ボクら自身の失敗経験として、以前、異業種数名と一緒に立ち上げていた共同事業では、その『軸』がブレていたため、後々とても苦労しました。失敗していた解っていたはずなのに、その後もまた異業種での共同事業でも上手く機能しなかったのは、しっかりとした『軸』は持ち合わせていたはずなのに、それがしっかり共有できていなかったという経験をしています。

   

その『軸』が定まらないうちは、自然と「供給者論理」…いわゆるエゴと言っても良いでしょう…。

いわゆる「自己実現のための起業」というところに、甘さと思慮浅い部分の両方が出ていることに、なかなか自分では気づきにくいことがあったりします。

 

それがあぶり出されてくるようになり、マーケット評価を伴わない自己主張が見え隠れするので、自分達自身も辛くなる…そういう経験をしています。

  

  

ただ、その失敗経験は、今すべての事案への「糧」となっています。

もちろん、その時に大きく不快感を与えてしまった方々には、今でも心底お詫びしている気持ちも強く残っています。

 

しかし、失敗をいかに次につなげるか…確固たる『軸』に替えていくか…

  

その『軸』を創るべく…ボクらがアウトプットした「栄養素」の一つひとつにおいて…

 

  • 「共創」とは、本質的に「誰と共に創る」ものなのか
  • 「価値組」とは、どういうことを「豊かさの定義」とした経済循環のことなのか
  • 「共育」とは、いかに自分自身に厳しさが求められるものであることか
  • 「オンリーワンの所在」とは、提供する商品(サービス)の先に何を見据えるべきことなのか

  

これらの「本質」を見極めることができるなら、もはや人から影響を受けた言葉ではなく、自分達で見出した価値創造力という、立派な実践力になります。

(箇条書きしている四点目のことは、これはこのことだけで大変深い話になりますので、また違う機会で述べることにしますが…)

   

「自分達だからこそ創れる価値」…それにはどのような要素が不可欠なのか…。

それは各自でじっくり見出していって欲しいと思います。

  

それを続けている人は、「インプット」と「企画」で終わるのではなく、「アウトプット」と「実践」の中に主体性を見出していくようになり、その精度もどんどん高まります。

 

  

インパクトよりもコンパクト

  

「レーベルそら」では、「依存型消費者から脱却を目指し、創造型生活者になるために成長し続け…その姿を次世代のコドモ達の心に響くように、口だけで語るではなく、振る舞いや日々の姿勢から、背中で語ろう」ということを推奨しています。

 

そのために、「自分らしい生活を創るために、失敗を恐れずに不完全である自分を楽しみながら、働き方・暮らし方・子供の育み方と、丁寧に、しっかりと向き合っていく」…そこに共鳴・共感する人達と共に歩んでいきたいのです。

(その想いについてはコチラ)  

 

ボクらが日頃から「これからの経済活動のあり方」「ミニバスケでの各家庭・チーム環境のあり方」を唱えて、そこに賛同して草の根の「笑顔創造」のゲリラ活動をしている人達は、そういう人ばかりなんですね…

 

 

ボクらだからできる事がある。

ボクらにしかできない事がある。

できる事からやる。

  

そこには、「影響力」を与えるようなインパクトは要らないと思っています。

 

周りにいる人々の顔が笑顔になる瞬間が見える範囲で…常にコンパクトにやります。

そして、どの場面でも「あそびゴコロ」は忘れずに…。

その小さいことから、身近な事から、自分にできる事を始める積み重ねが、自然体で共感を得て、支援者どころか当事者としていつの間にか一緒に歩んでいるようなスタイル…。

 

実践力を伴い…また、常に価値創造にむけた「仮説」が出きて、実践した後に「検証」する…そのあたり前の姿勢が、必ず次世代を担う子供達にも響いてくると信じています。

だから、誰が言ったキーワードかとか、企画したのは誰かという虚勢的なことより、威勢の良い実践力の方に興味が沸きます。

  

 

この「レーベルそら」を立ち上げてから、コラムやトークライブ録を読んで頂いた方々より、たくさんのメッセージが届いています。

そうした中の返信にもコメントさせてもらっていますが…

 

ぜひ「影響を受けました」という受動的なスタンスで留まることなく、先にも述べたように、いい形で気づきや目覚めの栄養剤として、「能動的」「実践的」なものにしてもらえたら嬉しいわけです。

   

まずは、アウトプットしてみて、覚悟を決めて、その想いを全て、実践力に替えてみてください。

しかも、身の丈の範囲でコンパクトに捉えてみたら、修正点や課題を明確にしやすくなるのかもしれません。

 

 

人口が減り続ける慢性的マーケット縮小という未曾有の経済環境を迎えるにあたり、ますます一人ひとりに価値創造のチカラが求められることは間違いありません。

 

そこにはもう、急激な人口減で、奪い合うパイが存在しないわけですから、競争スタンスは意味をなさず、共創スタンスが求められるようになります。

そこで…今から求められるのは、身の丈のコンパクトなこと、身近なことからで構わないので、「自分にできること」「自分にだからできること」を続けていると、いつの間にか「自分にしかできないこと」を見出せたりします。

 

 



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